エドモントン ウクライナ移民たち

カナダ - 150年 街道をゆく

お気に入りに追加

エドモントン ウクライナ移民たち

ウィニペグからは、途中下車したばかりのVIA鉄道に、再び乗りこんだ。

IMG_4036

用心してウィニペグ駅には午前9時頃に来てみたのだが、まだ列車は来ていなかった。

最初ウィニペグに着いたときは、予定より1時間早い午前7時に着いた。それで早めにこの日は午前9時半に行ってみたのだが、まだ着いてもいなかった。定刻では午後11時半出発予定だから、しばらく待っていたのだが、いつまでもたっても到着すらしない。

VIA鉄道の線路は、普段は貨物列車が多く行きかうのとほとんどが単線のため、貨物列車とのタイミング次第では早く着いたり、遅く着いたりする(ほとんど遅く着くのだが)。結局、この日到着したのは、午後12時半頃だった。4時間ほど遅れたことになる。

IMG_4037

↑ウィニペグ駅からVIA鉄道に乗り込む人たち。

ここから1泊2日でエドモントンへ向かった。

エドモントンのあるアルバータ州で、また時差のために1時間、時計をずらせる。

 IMG_4043

エドモントンはもともと人口400人ほどの寒村だったが、19世紀にユーコンで起こったゴールドラッシュで人口が増え、それをきっかけに大都市になった。そのためダウンタウンは高層ビルばかりで、博物館以外、特に見るものもない。

川を挟んで向かい側にオールド・ストラスコーナという古い町があるがあるが、ここには高い建物もなく、再開発でいろいろなレストランや出店も出ているから、旅行者はこの辺りに滞在すると不便を感じない。

エドモントンの見所は、郊外にある。例えばエルクアイランド国立公園が有名だ。

この国立公園は1906年、絶滅の危機にあったエルクを保護することを目的に設立されたカナダ最古の野生動物保護区だ。エルクのほかに、バイソン、ムース、ビーバーなどが生息する。私が行ったときはちょうどパイソン(バッファロー)数頭が散歩しているところだった。

IMG_3104

IMG_3109

IMG_3091

このバイソンは、入植してきた白人たちによる、主に面白半分のハンティングにより絶滅の危機に瀕していた。その保護のために国立公園ができたのだが、かつてのパイロ・ボーン(骨の山)の写真を見ると、カナダの歴史もなかなかに壮絶だなと感じる。

IMG_3067

↑バイソンの頭骨によってできたパイロ・ボーン(骨山)の写真をバックに、国立公園のスタッフが丁寧に説明してくれる。

IMG_3075 

↑バイソンの頭骨

 

ところで、このエルクアイランド国立公園の近くには、「ウクライナ文化遺産村」というところもある。

なぜこんなところにウクライナ村があるかといえば、カナダ西部開拓史を語るうえで欠かせないのが、このウクライナ系移民たちだからだ。

IMG_3169

↑ウクライナ式の教会

1896年当時のカナダの人口はおよそ500万人ほどだったが、第一次大戦前の1914までに300万人の移民がカナダに入植している。もちろん移民はウクライナ系ばかりでない。イギリス系やフランス系の方が圧倒的に多かったし、ドイツ、イタリア、ロシア、ポーランドなどからも来ていたのだが、中でも異質だったのがウクライナ移民だったのだ。 

IMG_3143

↑入植当時の家。土でできている。

IMG_3151

↑その内部。厳寒期にそなえて半地下になっている。

先住民とバイソンを追い払いながら大陸横断鉄道が西に延びるのと同時に、移民たちも開拓団として次々に西部に入植していった。

IMG_4551

↑当時の入植移民募集ポスター(鉄道版)。「(広大な土地すべてが)私のもの!」と書かれている。

当時、カナダ移民は10ドルの手数料を払い、3年間移住して30エーカー(東京ドーム2.6個分)以上開拓すれば、160エーカーの土地を無償でもらうことができた。だから現在でも、カナダ中央部のプレーリー地帯は160エーカーというのが農場の基本面積になっている。

プライドばかり高くて肉体労働を嫌ったイギリス系たちと違って、屈強で生粋の農民集団であったウクライナ人たちは、次々に国有鉄道に乗ってやってきては、プレーリー地帯を開拓し、カナダの小麦ブームにのることになる。

なぜヨーロッパでも、特にウクライナ人たちが大挙して押し寄せたのかというと、農業に長けていたという理由もあるが、大きな原因は故郷がハブスブルク帝国とロシア帝国に長い間、圧制されてきたからだった。

IMG_3198

↑ウクライナ系のガイドによる説明。手前の女の人はちょうど、ウクライナ訛りの強い英語で当時の生活をリアル・タイム(?)で語ってくれているところ。右にあるのは巨大なストーブ兼オーブン。

ウクライナ人たちは厳寒の冬を越し、苦労して農地を開拓していくのだが、同時にその文化と習慣だけは頑なに守った。民族衣装を着てウクライナ語を話し、宗教もギリシャ・カトリックかロシア正教に属していた。例えばクリスマスは1月7日にあり、その日に学校を休む子供たちも少なくなかった。そのためカナダの中でも差別されることになり、移民立国カナダの中でも「プレーリー地帯にいる特異な集団」として知られるようになる。

現在、ウクライナ移民の子孫たちはカナダの都市部に交じっている人も多いが、ウクライナ語を母語として守っている家もまだ少なくない。歴史村に残されている教会も、また現役で使われているという。

広大なカナダ中央・平原地帯を開拓したウクライナ人たちにとって、この歴史村は観光名所というよりは、彼らのアイデンティティそのものでもある。

IMG_3167

IMG_3162

↑入植当時の家。当初のものよりは進歩しているが、まだ土壁でできている(第二次大戦前頃)。

 

敷地内を案内してくれたガイドに訊くと、今でも彼は自宅ではウクライナ語だと言う。

「ウクライナは、食べ物もおいしいですよ。ボルシチとかヴァレーヌィク(餃子)などは、ここでも食べられます」

IMG_3130

↑ウクライナ風餃子

案内の途中で食堂に寄って、伝統的なウクライナ料理をふるまってくれることになった。食堂といっても、100人くらいは軽く入られるほど大きな建物だ。ただの太いソーセージだと思っていたのは、豚の血でつくったクロヴヤーンカという料理だという。

敷地内には民族学校の跡や商店、十数年前まで実際に使われていた穀物エレベーターの巨大な建物なども保存されている。これは取れた小麦を貯蔵しておくのに使われた。そのまま汽車に載せられるよう、線路跡も残っている。

IMG_3139

↑手前が駅舎跡で、奥が穀物エレベーター跡。写真が下手で遠近がおかしいので伝わりにくいが、五階建てのビルくらいある。そこまで線路が続いているのがわかる。これは現在はもう使われていないが、基本的な構造は今も同じだ。

ガイドは強い口調で語った。

「ウクライナ人には、いつの時代も大国の侵略に耐えてきた我慢強さがあったからこそ、このプレーリー地帯でも我慢強く生活できた。だから私たちも、この文化を大事に守りたいと思っているんです」 

現在、ウクライナ系カナダ人は広く認められており、1990年にはレイモン・ジョン・ナティシャンがカナダ総督になっている。彼は英語はもちろん、やはり家庭内ではウクライナ語を話していたという。

IMG_3183

IMG_3182

IMG_3188

↑ウクライナ民族学校跡を再現した風景。勉強机の右上には、インク壺がある。 

IMG_3200

↑当時のまま残された窯。ここでパンなどを焼いた。

夕食はオールド・ストラス・コーナーにある「ミート」というレストランでとった。文字通り、肉料理専門店だ。 

IMG_3209

IMG_3203

IMG_3207

↑私は牛肉なら1.5キロまでOKだが、さすがにこれ以上は食べられなかった。 

 つづく

 

 

コメント

  • 和多田慧子

    こんにちは。ウクライナ移民の話、興味深く拝見しました。先日ニュースで、キューバへの日本人移民1世で最後の生存者が108歳で亡くなったと報じていました。日系ブラジル移民の話は聞いたことがありましたが、キューバにも行っておられたとは知りませんでした。まだ貧しかったころの日本人が世界のあちらこちらに出て行ったように、ウクライナの人々も圧政から逃れて世界各地で根づいていったのだなと親近感を持ちました。

    • 上原善広

      コメントありがとうございます。キューバのニュースはぼくも見ましたが、日系人はみなさん苦労されていますよね。カナダの日系人については後日また取り上げますが、カナダ中央部の大平原地帯を語るうえで避けられないのが、「ウクライナ移民」でした。ウクライナは現在でも、主に東部で親ロシア派と欧米派に分かれて戦闘状態にあります。これは昨年から日本でもニュースで流れていますが、昔から戦争が絶えない土地柄でした。日本からはとても遠い国なので、カナダで少しでもウクライナ文化に触れられたことは良かったと思います。これからもまた時々、のぞいてみてくださいね。

コメントを残す