ラスト・スパイクーーロジャース・パスと最後の犬釘

カナダ - 150年 街道をゆく

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ラスト・スパイクーーロジャース・パスと最後の犬釘

ジャスパーを出て、ロッキーを越える。

ここからロッキーを越えるには、ロジャース・パスを越えなければならない。

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↑ロジャース・パスにある異例碑。山間にあるので天気が崩れやすく、私が訪れたときはあいにくの豪雨だった。

 

ロジャース・パスとは、ロッキー越えの最難関であった峠のことだ。

ロジャース・パスがあるセルカーク山脈は、かつてはほとんど知られていなかったロッキー最大の難関箇所で、大陸横断鉄道を建設するためのルートもここで途絶えたままだった。

そこでアメリカ人のアルバート・ロジャース率いる調査隊は、西からコロンビア川にそってセルカーク山脈を縦走し、悪戦苦闘のすえ、ついに鉄道での突破が可能な標高1323メートルの峠を発見する(1882年 明治15)。

冬になると15メートルもの積雪がある難所だが、これでついに太平洋へ抜けるルートが開けた。カナダ太平洋鉄道はここを見つけた彼に報いて「ロジャース・パス」と名付け、彼に5000ドルの報奨金と金時計を贈った。

しかし開通後も、雪崩の恐怖からは逃れることができず、開通後も数多くの犠牲者が出ました。そこでコンノートトンネルが掘られ、鉄道は雪崩の危険におびえなくてすむようになる。

かつてのロジャースパスにはトランス・カナダ・ハイウェイが走るようになり、1962年から鉄道と供用されるようになった。現在では世界一の雪崩対策が施されているという。

ロジャース・パスの開通によって、カナダは大陸横断鉄道を完成されることができた。つまりカナダという国ができるうえで、欠かすことのできない一つの峠が、このロジャース・パスなのである。

ある国の建国の歴史が、カナダ太平洋鉄道という一私企業と密接に結びついている例は、世界でもほとんどないという。カナダはまさにそうした国だった。この一鉄道会社の大陸横断計画は、まさに国家的事業でもあった。カナダという国をつくるには、カナダ太平洋鉄道の大陸横断は必要不可欠であったのである。

私が訪れた当日は、激しい雨であった。通常ならここからさまざまなトレイル(ハイキング・コース)が出ているので、軽く散歩くらいできるのだが、案内所を見て、犠牲者たちの追悼碑を見ただけで、先に進まざるを得なかった。

ロジャース・パスを西へ、つまりバンクーバー方面へ下ったところにあるレヴェルストークという町を通過して、クライゲラキーに向かった。

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↑レベルストークでもっとも安いモーテル「フロンティア」。一泊65ドル。

クライゲラキーは、東から延びてきた鉄道と、西から延びてきた鉄道が初めてここで合流した記念すべき土地である。人口数十人という寒村だが、カナダ横断の夢は、ここで初めて現実のものとなった記念すべき地であった。

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↑ラスト・スパイクの記念碑前で。カナダ人もよく訪れる。

1885年(明治18)11月7日は、冷たい雨が降っていた。大陸横断鉄道の完成の一報を聞いた鉄道王ヴァン・ホーンたちは特別列車でクラゲラキーに到着。線路はすでに敷かれていたが、最後の犬釘(線路を固定するための特別な釘)を打つセレモニーをするために、多くの鉄道関係者がやってきていた。

最後の犬釘は、アメリカでよくあるような純金製ではなく、普通の犬釘が選ばれ、ヴァン・ホーンはそれを打ち込む栄誉を、モントリオールからやってきていた太平洋鉄道の筆頭株主(のちに社長)ドナルド・スミスに譲った。ルート発見の功労者ロジャースが長いバーで犬釘を支える。

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↑線路を枕木を固定する犬釘。

最初の一振りは目標を外して犬釘を曲げてしまったが、二度目のハンマーは見事に犬釘を打ち、線路と枕木を結び付けた。盛大な拍手の中、スピーチに立ったヴァン・ホーンは「仕事はあらゆる面で上出来だった。私が言えるのはそれだけだ」と、それだけを言って呆気なくセレモニーは終わった。

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↑セレモニーの写真。ハンマーを打ち付けているのがドナルド・ミスミ。その横にいる太った男が、実際にこの鉄道建設を推進したヴァン・ホーン。

それからヴァン・ホーンは、オタワにいるマクドナルド首相に、電報を送った。

「貴殿の先見の明ある政策と、揺るぎない支援により、カナダ太平洋鉄道は今朝9時22分、最後のレールを敷いて完成した」

こうしてカナダは難工事の末に、大陸横断鉄道を完成させ、これによって東部から西部への交通を確保することができたのである。

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↑現在は主に貨物列車と観光列車が通っている。

このカナダ連国の歴史の裏では、一万人ちかくの中国人労働者たちがいた。彼らは危険な鉄道工事に従事し、その死者は数百人と推定されているが、正確な数はいまだにわかっていない。さらにカナダ政府は1885年に工事が終わると、手のひらを反すように中国人移民の規制に乗り出し、高額の人頭税も導入することになるのだった。

現在のクライゲラキーは、観光案内所も建てられ、多くの観光客が立ちよっている。鉄条網が張られているので線路には近づけないが、観光客用に犬釘や線路などが展示されている。

 つづく

 

コメント

  • 浦西 泰

    初めまして。カナダは新しい国なので、開拓にまつわる話はいろいろあるのでしょうね。鉄道工事に従事した中国人たちが、どのような経路をたどってカナダに入ったのか興味をもちました。

    • 上原善広

      確かにそうですね、中国人は世界各国にいますが、どうやって拡散して行ったのでしょうね。カナダにおける中国人労働者に関しては、また調べてみますね。

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