マニトバ ― Heart of Canada

03. 木村先生を追って

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僕は今、レッド川を挟んでザ・フォークスの対岸にある「サン・ボニファス博物館」の前に立っている。その僕の頭の中には、ひとりの研究者の名前が浮かんでいる。

木村和男先生。僕が尊敬してやまないカナダ研究の第一人者だ。

残念ながら先生は2007年に若くしてお亡くなりになられた。振り返ってみると、僕はちょうどそのころ、偶然にも取材を通じてカナダとの関わりを持ち始めていた。

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だから木村先生の偉大さに気づいた時、先生に質問してみたいと思った時、既に先生にお会いすることはできなくなっていた。仕方なく僕は数々の著作を拝読しながら、勝手に先生をカナダ史における「師」と仰いでいる。

木村先生はその著著『カナダ歴史紀行』で、「ルイ・リエルを追って メティスの聖地からウィニペグへ」という章を書いておられる。

このページのトップ写真、かつて修道院だったサン・ボニファス博物館の前にある像の人物こそ、木村先生が追ったルイ・リエルだ。

リエルは白人男性と先住民の女性の間に生まれた。こうした混血の人たちをカナダでは「メイティ」あるいは「メティス」と呼ぶ。そのリエルを木村先生が追い、僕は先生の足跡を追ってサン・ボニファスの地にやってきた。

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メイティと言っても何だか分からないと思う。そこでまず、博物館の展示を見てほしい。彼らの佇まいは明らかに先住民のそれとは違う。

メイティは、いわゆるヨーロッパ的な文明との関わりの中で暮らしていた人々だ。そしてサン・ボニファスにはおよそ15000人のコミュニティが存在し、彼らはバッファロー狩りのほかに農耕も行い、また敬虔なカトリック教徒でもあった。

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そもそも、高級帽子の材料となるビーバーの毛皮を求めてヨーロッパ大陸からやってきたフランス人、イギリス人たちは、ビーバーを捕らえることもできないし、極寒の冬を生き抜く術も持たなかった。

だから先住民の協力が不可欠だったし、いつしか彼らの多くが先住民女性と結婚し、温かな家庭を持つことになった。

ビーバーの毛皮交易に当たって、妻である彼女たちは白人と先住民の「橋渡し役」として重要な役割を果たした。だからその子供たち、孫たちは当然、白人と先住民の「絆の象徴」のはずだと僕は思う。

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しかし、僕が勝手に「絆の象徴」と呼ぶメイティのリエルは、1885年に処刑され、生まれ故郷のサン・ボニファスに埋葬された。メイティの権利を守るため、カナダ政府との戦いの先頭に立ち、敗れ、反逆者として40年余の生涯を終えたのだ。

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1867年のカナダ建国に参加した東側の4つの州を除くと、今のカナダの国土のほとんどは当時、イギリス国王から特権を与えられた毛皮交易会社「ハドソン湾会社」のものだった。

カナダ政府はハドソン湾会社からその土地を買い取り、入植者を送り込むことにした。ただし、先住民やメイティに何の相談もなく、だ。

反発したメイティたちは1869年、当時25歳のリエルをリーダーに蜂起する。「レッドリバーの反乱」だ。

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リエルたちは政府にメイティの権利と、小さな小さな「マニトバ州」の創設を認めさせることに成功する。だからリエルは「マニトバの父」とも呼ばれているけれど、リエルが実現した当時のマニトバは写真の黄色い部分にすぎない。

本当に小さな“マニトバ”だった。しかしこの小さな権利すら結局は守られることなく、メイティたちは1885年、2度目の反乱へと追い込まれていく。

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この写真は現在のサスカチュワン州のバトーシェというところで繰り広げられた政府軍とメイティの戦闘の様子だ。

2度目の蜂起は政府軍によって鎮圧され、バトーシェは木村先生の言う「メティス(メイティ)の聖地」となった。そして首謀者であるリエルは州都リジャイナで絞首刑に処せられ、生まれ故郷に埋葬された。そのサン・ボニファスに僕は立っている。

かつてリエルを追った木村先生が、もし建国150周年を迎えた2017年にご健在だったら、カナダ史の魅力をどんなふうに語ってくれただろうかと思う。それが叶わぬことだからこそ、勝手に“弟子入り”した僕は、これからも木村先生を追いかけたいと思っている。

文・写真:平間俊行

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