ずるぎつねの故郷を訪ねて

06. 波乱万丈! ヒューロン国の興亡

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「カナダの生みの親」、シャンプランの時代に話を戻そう。
1608年、ケベックに拠点を設けたシャンプランは、ヒューロンをはじめ、アルゴンキン、イヌー(モンタネイ)などの国々と手を結んだ。
そして、1609年、彼らに頼まれて、イロコイ同盟に属するモホークを攻撃した。
イロコイ同盟は、アルゴンキンやイヌーとは不倶戴天の敵。同じイロコイアンのヒューロンとも、大層仲が悪かったのである。

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鉄砲でイロコイを攻めるシャンプラン

当時、イロコイはまだ鉄砲を見たことがなかった。そこへ、シャンプランと二人の部下が鉄砲ひっさげて現れ、イロコイのチーフ2人を、轟音とともに屠ったのだからたまらない。イロコイは胆をつぶして敗走し、シャンプランとヒューロンたちは勝利を収めた。

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当時の鉄砲は火縄銃だった

ところが、このささやかな勝利は、ヌーベル・フランスに大きな災厄を招く。イロコイを敵に回してしまったからだ。

やがてイロコイは、オランダ人やイギリス人から鉄砲を入手。毛皮交易の商権を巡って、ヌーベル・フランスを100年近く悩ませる。

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ヒューロニア(赤丸)と周辺の民族

シャンプランと出会った頃、ヒューロンの人たちは、ヒューロン湖の右肩にあるジョージア湾南岸付近に住んでいた。
ケベックから600キロあまり西にあたる。

今も付近一帯は「ヒューロニア」と呼ばれている。地味が肥え、農業に適した地域だ。

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毛皮の産地、カナダ楯状地。農業には不向き

ヒューロニアの北には「カナダ楯状地」と呼ばれる、巨大な岩盤でできた大地が広がる。カナダ楯状地は、土壌が貧しく、気候も厳しいとあって、農業には向かない。

その代わり、豊かな森に覆われ、厳しい寒さから身を守るためにふかふかの毛皮をまとった動物がたくさん住んでいる。

シャンプランが初めてヒューロニアを訪ねたのは1615年。
毛皮交易のパートナーであるヒューロンとの絆を強めるためだった。

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ロングハウス(ヒューロニアの歴史村「サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ」)

ヒューロニアは、東西55キロ、南北30キロほど。
16~25の村があり、大きな村では3千人以上もの人たちが暮らしていた。
総人口は2~3万と考えられている。

周囲には、ヒューロンと友好的なイロコイ系の先住民の国々、タバコ、ニュートラル、エリーがあった。

なお、タバコ国とニュートラル国は、それぞれ、「タバコを多く産する国」、「部族間戦争で中立(ニュートラル)を保った国」が名前の由来だ。

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樺皮カヌー(サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ)

ヒューロンの男たちは、ヨーロッパ人に出会う前から、樺皮カヌーを駆って盛んに交易を行っていた。

村を川のほとりに設けたのも、飲み水や灌漑用水を得るだけでなく、カヌーでの行き来に便利だったからだと考えられている。

フランス人との交易が始まると、既存のルートを活かして大いに栄え、「ヒューロン交易帝国」を築いた。交易の元手となったのが、ヒューロニアで豊かに育った農作物だ。

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銅の鍋は大人気の交易商品

まず、北方の楯状地の人々から、農作物と交換に毛皮を得る。次に、その毛皮をフランス人の拠点に運び、ヨーロッパ製品と交換するのである。

金属の鍋やナイフ、生地やビーズなどは、ヒューロンの人たちの必需品となっていく。

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宣教師と先住民の出会いを描いた巨大壁画(オンタリオ州ミッドランド)

やがてフランス人は、毛皮交易だけでなく、キリスト教(カトリック)を広めるためにもヒューロニアを訪ねるようになった。

アルゴンキアンと異なり、農耕民のヒューロンは、村に定住して暮らすので、布教の拠点として都合がよかったのである。

ちなみに、フランス人宣教師がヒューロニア目指して苦難の旅をする「ブラック・ローブ」という物語が、カナダで映画化されている (日本公開は1995年)。

もともとヒューロンの人たちには客を暖かくもてなす風習があった。村を訪ねてきた客人は、何日でも自由に寝泊まりでき、食べ物も気前よく振る舞われた。
こうした気風があればこそ、宣教師も長期間の逗留ができたのだろう。

1634年、ヒューロニアに最初の伝道所が設けられてから、1649年にヒューロニアが滅亡するまでの15年間は、ヒューロンの激動の時代だった。

フランス人との接触は、思わぬ大災厄をもたらした。天然痘やはしかが大流行したのだ。
ヒューロンの人たちは、ヨーロッパからの疫病に免疫がなかった。かつて2~3万もあった人口は、たび重なる疫病の蔓延により1640年頃には1万以下に激減。指導者の多くを失い、ヒューロンの社会は大打撃をこうむる。

また、キリスト教の布教が進むと、キリスト教に改宗した人たちと、改宗しない伝統派が対立し、同じ村人同士がいがみあうようになった。

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ミッドランドに再現された「サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ」

伝道所は、当初、ヒューロンの村の近くにあったが、1639年、村から離れた所に新たな拠点を築いた。伝統派のキリスト教徒に対する敵意が激しくなったからだ。
新しい拠点が「サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ」である。

以前にトロントに行った時、トロントの北100キロにあるミッドランドへ、グレイハウンドに乗って出かけたことがあった。
ミッドランドはヒューロニアの中心にあり、「サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ(Sainte-Marie among the Hurons)」が歴史村として再現されている。

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コスプレのスタッフが当時の生活を再現

再現版「サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ」を訪ねた。コスプレのスタッフが、1640年代の宣教師やヒューロンの人々の暮らしぶりを見せてくれる施設だった。

ここには、ロングハウスも再現されていた。

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ヒューロン-ウェンダット村(ミッドランド)

「サント・マリー アマング ザ ヒューロンズ」の近くにある「ヒューロニア博物館 ヒューロン-ウェンダット村(Huronia Museum and Huron Ouendat Village)」にもロングハウスが再現されていた。

ここでは、ヨーロッパ人に出会う以前のヒューロンの人たちの暮らしを知ることができた。

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ビーバー

1640年代には、ビーバーなどの毛皮の交易を巡って先住民の国々が争う「ビーバー戦争」が激しくなった。この戦争については、「ビーバー カナダを創ったスーパー・アニマル07 ビーバー戦争」に記した。

そこに述べたようないきさつから、1649年3月、イロコイ族1千の軍団が、ヒューロニアに侵入。村々を急襲し、数百人のヒューロン人を惨殺した。伝道所も襲撃された。
この惨劇によって、ヒューロン国は瓦解。人々はヒューロニアを捨てて離散した。

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ヒューロンの人たちは3方向に離散した

西隣の友好国で、ヒューロンと同じイロコイアンの、タバコ国に避難する者もいた。ヒューロンとタバコは一体となって、西へ逃れ、次に南下して、オハイオ川流域へと移って行った(左図①)。

彼らは「ワイアンドット」と呼ばれ、19世紀半ばにはアメリカのオクラホマ州に移り住んだ。

仇敵のイロコイの所に逃げ込んで暮らし始める人たちも少なくなかった。イロコイは、彼らを養子として迎え入れることで、戦や疫病で失った人口を補った(図②)。

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18世紀に描かれた ヒューロンの男女

最も悲惨な目にあったのは、陸地から近いクリスチャン島に逃れた、キリスト教に改宗した人たちだろう。島は不毛地で、食べ物は乏しく、冬には餓死者が続出。1000人ほどの避難民のうち、春まで辛うじて餓死を免れたのは300人ほどだった。

生存者は、1650年6月、島を出た後、宣教師の勧めに従い、何と、遥か東のケベックを目指す。わざわざ大敵イロコイのいる方向へ逃げるとは、何とも無謀だ。宣教師の本拠地なら安全と考えたのだろうか。

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19世紀のヒューロン男性

ケベックにたどり着いた避難民は、安住の地を求めて周辺を漂泊する。時にイロコイの襲撃を受けつつ、50年近く、5~6か所を転々とした。
そして、1697年、ロレッタというところに居付いた。

ロレッタの今の名前がワンダケである。

ところで・・・

「ヒューロンはもともとケベックにいなかったのだから、ケベック周辺は、創世記で彼らの祖先が『我らが麗しの地』と呼んだという場所とは、違うんじゃないか?」
という疑問が、当然湧く。

しかし、実は、そうとも言えない。
ヒューロニアよりも前の時代、ヒューロンの人たちはケベック周辺に住んでいたらしいのだ。

シャンプランより70年ほど早くケベック付近にやってきたフランス人探検家ジャック・カルティエを迎えたのは、当時その辺りに住んでいたヒューロンの人たちだったと考と考えられている。

文・写真:横須賀孝弘

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