マニトバ ― Heart of Canada

13. 僕が会えなかった人

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秘境を走る列車が遅れなければ、ウィニペグでお会いできていたかもしれない方がいる。アート・ミキさん。ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)バンクーバー生まれの日系3世のカナダ人だ。

1988年9月22日、この写真にある歴史的な場面で、アートさんはブライアン・マルルーニー首相(当時)の隣で、日系カナダ人協会の会長として「日系カナダ人補償協定」に署名した。

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太平洋戦争が勃発すると、バンクーバーなどで暮らしていた日系人は突如「敵性外国人」と見なされ、日本軍が襲来するであろう太平洋沿岸から引き離されることになった。

漁師として、きこりとして、また缶詰工場や製材所、鉄道の建設現場などで働いていた日系人は、船や家屋などすべての財産を没収され、市民権も剥奪された。

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彼らが送られた先は、内陸部のゴーストタウンの収容所や、プレーリーのシュガービート畑。強制的に帰国させられた人もいた。

そして戦後から40年以上を経て、カナダ政府はついに日系カナダ人の名誉を回復し、個人に対する補償を行うことを決断する。アートさんは、カナダ政府を突き動かすための戦いと交渉の先頭に立った人物なのだ。

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この写真の前列の右側で、鍬を手にしているのが当時5歳のアートさん。ウィニペグから南に40キロほどのセント・アガサ(Ste. Agathe)という街のシュガービート畑での家族の写真だ。

もともと父方と母方の祖父母はともに福岡県の出身で、1900年前後にそれぞれバンクーバーにやってきたそうだ。母方の祖父は漁師のほか、缶詰工場で働く日本人の仲介などをし、父方の祖父は材木キャンプで働いたのち、スティーブストンで漁師をしたあとに早世したという。

カナダ政府から、「敵性外国人」として移住の指示が下された時、アートさん一家はマニトバ州に向かう決断をした。収容所に行けば家族がバラバラにされてしまうのに対し、農作業の人手を求めていたマニトバのシュガービート農場では家族が一緒に暮らせると知ったからだ。

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1942年5月、汽車に揺られてやってきたアート少年が見た光景はどんなものだったのか。

「だだっ広い農場にぽつんと建った掘っ立て小屋で、水も下水道も電気もありませんでした。当時私は5歳、(4人兄弟の)1番下の弟は、マニトバ州で初めて日系人として生まれた子どもの1人でした」。

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僕が会えなかったアートさんの言葉は、マニトバでの取材の際、通訳をお願いしたウィニペグ在住の方を介し、帰国後にメールで伝えていただいたものだ。

このやり取りの中で、僕はアートさんにあえて抽象的な質問をぶつけてもらった。「今のカナダはいい国でしょうか、今のカナダは人にとって温かい国でしょうか」。アートさんの答えはこうだ。

「カナダ政府は、自らの過去の過ちを認めたことに対して賞賛されるべきだと思います」

アートさんによるとカナダ政府は1898年、わざわざ日本に人を派遣し、カナダから強制帰国させられた人たちに補償を受けるよう促して回ったのだそうだ。

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アートさんに会えなかった僕は、いつもの旅と同様に酒を飲み、料理に舌鼓を打ちながら、ウィニペグ最後の夜を楽しんでいた。僕のカナダの旅ではお決まりの、「のほほん」とした時間だ。

過去に過ちを起こさなかった国家など地球上に存在しないだろう。たぶん。

でも、1度過ちを認めたら「クソ真面目」と言っていいぐらい真摯に、正面から向き合おうとするところがカナダのよさだと僕は常々思っている。

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だからなんだか、この国は人をほっとさせてくれるというか、カナダの旅では「人間も捨てたもんじゃないなあ」というパワーみたいなものをもらえるような気がしている。

さて、マニトバの旅ではいろいろなことを真面目に考えすぎたような気もする。真面目に考えつつ、でも飲んで食べて思い切り楽しむ。それが旅だと思う。だから最後の夜も飲んだくれてしまおう。これもまた、僕の変わらぬ言い訳だけれど。

文・写真:平間俊行

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