
STORY
アルバータの物語
12. ガリツィア

ここはエドモントン郊外のLay Lopushinkskyさんのお宅。4代続くウクライナからの移民のご一家だ。
大西洋を渡ってエドモントンにやってきたウクライナの人たちには、カナダ政府によって東京ドーム約14個分の土地が無償で与えられた。
Layさんの祖父母もやはり、この広大な土地に魅力を感じ、故郷を離れてこの北米の地にやってきたのだろう。

土地が「無償」で提供されると言っても、一応は条件があった。
3年のうち6カ月間はその土地で暮らし、やはり3年のうちに30エーカーの開墾を終えて家を建てる、という義務が課せられていた。
160エーカーの土地を本当に自分たちのものにするために、Layさんの祖父母が建てた家が、失礼だがこの小屋のような住居だ。

Layさん一家の誰よりも背が低い僕ですら、ぐっと腰を折らないと中には入れないほど屋根が低い。
建物の壁を見ると、木の隙間が土でふさがれている。こんな壁で、氷点下が当たり前のカナダの厳しい冬を越していたのだ。

今は誰も住んでいないその家の前で、Layさん、そして妻のEileenさんに写真を撮らせてもらった。
祖父母、両親、Layさん御夫妻、そして今はLayさんの息子さんの代に至った4代続くウクライナ系カナダ人、Lopushinksky一家の原点が、この屋根の低い家にあるのだ。
「祖父母は1898年にオーストリアからここにやってきたんだ」とLayさん。

そう言ってLayさんは僕に古い書類の写しを見せてくれた。祖父母のカナダ入国に当たっての書類には、確かに「Ukraine」の文字はなく、なぜか「Austria」からやってきたと記されていた。
うしろには、「Galicia」という文字も見える。オーストリアのガリツィア―。
ガリツィアというのはウクライナの西の方の地方で、国内で最も貧しい地方と言われ、他国との領土争いに巻き込まれ続けてきた土地でもある。

学校の世界史の授業で、第一次世界大戦を引き起こすきっかけとなった「サラエボ事件」については習ったと思う。僕も含め、「習った」だけだと思うけど。
支配地であるボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪問した「オーストリア=ハンガリー帝国」の皇太子夫妻が、「被支配者」によって銃撃され、死亡した事件だ。
実はLayさんの祖父母が暮らしていた頃のガリツィアも同様に、このボスニア・ヘルツェゴビナを支配していた「オーストリア=ハンガリー帝国」に併合され、その支配下に置かれていた。

「ウクライナのガリツィア」は当時、「オーストリアのガリツィア」だったのだ。
Layさんのお宅には、いったい何人おられるのだろうか、たくさんの“Lopushinksky”の人々の写真が飾られていた。ご夫妻の若い時の写真もある。
今から約120年前に「オーストリアのガリツィア」からやってきた2人のウクライナ人が、カナダの大地に根を生やし、こうしてたくさんの家族を増やしてきたのだ。

「1850年代、オーストリアの支配下にあったウクライナの人たちは少数派だった。政治的にも経済的にも、いろいろな意味で圧力を受けていて、住みにくい状況だった。それが目を外へと向けさせることになったんだ」とLayさん。
靴職人としてガリツィアで生きていたLayさんの祖父は、その「生きにくさ」から、祖国を離れる決断をしたのだろう。
このページのトップ写真のように、ここの道路はみんなまっすぐ90度に交差している。地図を見れば一目瞭然、土地は真四角に区画されていて、その中に「Lopushinksky」の文字も見える。
海を渡ってやってきたLayさんの祖父母にとって、ここは期待通りの土地だったのだろうか。
「少なくとも帰国することは考えなかっただろう。こんなひどい、ということではなかったと思うよ」
エドモントン郊外の真四角の160エーカーは、ウクライナの人たちにとって、明るい未来を切り開いていくための、まさに新天地だったのだ。
文・写真:平間俊行