超お手軽!! トーテムポール大紀行

07. ラッコが招いた黄金時代

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1780年代に入ると、トーテムポールをめぐる状況は一変する。クック探検隊は、先住民の村を訪ねた翌年、中国に立ち寄り、先住民から手に入れていたラッコの毛皮を売った。当時の中国では、ラッコの毛皮が珍重されていたため、毛皮は何と1800倍もの高値で売れたのだった。

クック探検隊の記録が出版され、北太平洋沿岸で捕れるラッコの毛皮が、中国でとても高い値段で売れることが知れ渡ると、ヨーロッパやアメリカの船が殺到した。

カナダは、もともと毛皮交易によって形作られた国だ。ヨーロッパ人は、ビーバーなどの毛皮を求めて、西へ北へと進み、ついに太平洋岸に達したのである。

カナダの毛皮交易は、ヨーロッパ系の人たちが自ら毛皮獣を獲るのではなく、先住民が捕獲したものを、交易(物々交換)で手に入れるやり方だった。BC州の先住民が、ラッコの毛皮と引き換えに手に入れたモノの中には、トーテムポールを作るのに役立つ手斧(ちょうな)やナイフなど、鉄の刃の付いた工具も含まれていた。

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鉄の刃のついた手斧(ちょうな)。トーテムポール製作に手斧は欠かせない(UBC人類学博物館蔵)

毛皮交易は、二つの点でトーテムポールの製作に大きな影響を与えた。

まず、鉄の工具が大量に手に入るようになったため、長大な丸太全体に、比較的短い期間で、精巧な彫刻を施すことが可能となった。

先住民の伝統工芸が、鉄器という新しい道具を得ることで、めざましく発展し、花開いたのである。

鉄の工具にもまして重要だったのは、製作を支える経済的な側面だ。先住民の上流階級が、ラッコの毛皮交易で、大儲け。なにしろ、「家の格」といったことに物凄くこだわり、他の家を凌駕することを生きがいにしているような、見栄っ張りな人たちだったから、毛皮交易で得た富を使って、一家の権威を高めようと、工芸家にたっぷりと謝礼を払い、大きくて彫りも精巧な、立派なポールを、競って彫らせたのだ。

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トーテムポールが林立するハイダ族の村(1881年)

現在「トーテムポールの典型」と思われている背丈の高いポールは、北太平洋岸で毛皮交易が盛んになり始めた1780~1800年頃に生まれ、普及したと考えられる。

トーテムポール製作の最盛期は、1830~60年代。日本で言えば、幕藩体制が破たんし、幕末から明治に向かおうとする時代だ。部族ごとの様式が確立し、彫刻技術も向上。背の高いポールが大量に製作されて、村に林立するようになったのである。

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ハイダ族が入手した銃。台座に彫刻が施されている(UBC人類学博物館蔵)

受難の時代

このように、白人との交流は、トーテムポールの黄金時代を招いた。
しかし、同時に、衰退の原因にもなった。

先住民が交易によって得た様々なモノは、彼らの暮らしや文化を豊かにしたが、同時に、お酒を飲みすぎたり(それまで先住民は酒を知らなかった)、鉄砲が手に入ったため先住民同士の抗争が激しくなったりするなど、困った問題も引き起こした。

それだけではない。白人から疫病をうつされ、先住民の社会は大きな打撃を受けたのだ。北米先住民には天然痘や麻疹(はしか)などへの免疫がなかったので、どの地域の人たちも白人との接触によって伝染病のまん延に苦しんだが、BC州沿岸の場合、冬の家に大勢が密集して住むという生活スタイルのため、被害は特に甚大だった。何と人口の9割が病死してしまったのだ。当然、ポールを彫る工芸家も減ったのである。

さらに困ったことに、宣教師や政府は、先住民を白人の社会に同化させようと躍起になった。トーテムポールを、邪教の偶像と考えて、先住民に切り倒すようしむけ、新たに製作しないよう、強く勧めた。各種の儀式にともなう大宴会「ポトラッチ」は、しばしば主催者の大盤振る舞いが極端に走ったこともあって、財産の浪費とされ、法律で禁止された。トーテムポールの建立にはポトラッチが付きものだったので、ポトラッチの禁止はトーテムポール製作にも大打撃だった。

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クワクワカワクゥ族が暮らすアラートベイに開設された学校の生徒たち。学校教育は、子どもたちを姿も心も白人風に変えていった

先住民の昔ながらの暮らしをやめさせようという動きは、未来を担う子どもたちにも向けられた。

子どもたちが親の影響を受けないよう、寄宿学校に隔離。部族の言葉を使うことを厳しく禁じ、英語で話すよう強制した。つまり、先住民らしさを捨てさせ、白人と同じような人間にしてしまおうとしたのである。

これは、カナダの他の地域の先住民にも施された政策だった。

同化政策により、トーテムポールを彫る技術も、トーテムポールを必要とする社会の仕組みも、急速に失われていった。

同化政策は、「先住民にとって、白人と同じような暮らしを送るようになることこそが、幸せになる道だ」との考えにもとづくもので、政策を推し進めた人たちに悪意はなかったのだろう。しかし、見方を変えれば、それは先住民に昔ながらの生き方をやめさせ、伝統文化を根絶やしにすることに他ならない。先住民を、肉体的に抹殺するのではなく、文化的に抹消してしまう政策なのである。

疫病と同化政策によって、トーテムポールの文化が消え去ろうとする頃、学者や博物館関係者は、ようやくトーテムポールの価値に気づく。1870年代から1920年代にかけて、博物館などから派遣されたバイヤーたちが、先住民の暮らす村や廃村を訪ね、残っていたトーテムポールを奪い去るように持ち帰った。数百本ものトーテムポールが、村々から持ち去られ、カナダ、アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ等の博物館に送られたのである。

しかし、疫病を生き延びた先住民の中には、白人に同化させようとする力がどんなに強くなっても、先住民としての生き方を捨てない人たちがいた。官憲の手がとどきにくい遠隔地では、ポトラッチが催されつづけ、ポトラッチに必要な、仮面や装飾皿などの工芸品を製作する工芸家も、少数ながら残っていた。

スタンレーパークの「サンダーバード・ハウスポスト」のオリジナルを彫ったチャーリー・ジェイムズ(1867-1938)も、伝統工芸の技術を受け継ぐ一人だった。彼は、クワクワカワクゥ族の村、アラート・ベイに住み、義理の息子のマンゴー・マーティン(1879-1962)や、孫娘のエレン・ニ―ル(1916-66)に、同部族の木彫技術を伝えた。

この二人の弟子は、その後、カナダ先住民の美術史に大きな足跡を残すことになる。その一人、スタンレーパークにも作品が展示されている、エレン・ニ―ルについて次に記そう。

文:横須賀孝弘

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