超お手軽!! トーテムポール大紀行

08. よみがえったアート エレン・ニ―ルのポール

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エレン・ニ―ルのポール

同化政策により消滅寸前に追い込まれたトーテムポールだが、20世紀中ごろになって、劇的な復活を遂げる。その立役者の一人が、エレン・ニ―ルだ。

ニールは、師匠チャーリー・ジェイムズから学んだトーテムポールの技術を活かし、12歳の頃からミニチュアのトーテムポールを作って観光客に売るようになった。
結婚後は、バンクーバーに移り住む。そして、1946年から、スタンレーパークに工房を設け、ミニチュア・ポールの制作と販売にたずさわった。
ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)に人類学博物館が設立されたのは、ちょうどそのころのことだった。

1949年、博物館は、ニールに、収蔵していたトーテムポール7本の修復を依頼する。ニールは、兄弟弟子で親戚筋のマンゴー・マーティンに応援を頼んだ。

二人はいろいろやってみたが、年を経てぼろぼろになったポールを修復するのは容易ではない。ほどなく、「修復するよりも、新しい丸太でレプリカを作った方が、よいのではないか」との結論に達した。

かくして、トーテムポールを復刻するプロジェクトが発足。ニ―ルとマーティンは制作に励んだ。UBC人類学博物館につづいて、ビクトリアの王立ブリティッシュ・コロンビア博物館でも、トーテムポール復刻プロジェクトが立ち上がった。

トーテムポールは、一人で彫るのではない。熟練した師匠が、弟子に手伝ってもらう。マーティンも、若者を呼び寄せて、制作を手伝わせた。弟子たちは、これら博物館の事業を通して、トーテムポールの制作を体で覚え、トーテムポール作家として育っていった。

後にスタンレーパークの「チーフ・スケダンズのポール」を彫ることになるビル・リードや、「ワカスポール」を彫ることになるダグ・クランマーも、マーティンの制作を手伝うことで、トーテムポールの制作を学んだのだった。こうしてマーティンはトーテムポール復活の父となった。

一方、ニールの方は、トーテムポールの復活に大きく貢献したにも関わらず、社会的な評価の点ではマーティンの陰に隠れてしまう。トーテムポール製作は伝統的に男性の仕事とされ、彼女は例外的な存在だった。そのため、彼女に師事して学ぼうとする者が少なかったといったことも、彼女がマーティンほどの名声を得られなかった一因かもしれない。

この頃、カナダの先住民を取り巻く社会的な環境が大きく変わろうとしていた。19世紀末から20世紀の前半まで、先住民は、疫病で人口が大幅に減ったことなどから、「滅びゆく民族」と考えられていた。ところが、疫病が克服されるとともに、人口は次第に回復。独自の文化も受け継がれていたため、先住民は、肉体的にも文化的にも、「滅びゆく民族」ではないことがわかってきた。

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UBC人類学博物館

特に、1960年代頃から、先住民の文化は、カナダの大切な財産として、尊重すべきだと考えられるようになった。

一方、先住民の側でも、民族意識が高まり、自分たちの文化を大切にしようという気持ちが強くなった。

トーテムポールに関しても、博物館の事業によって制作が復活すると、名匠には、企業や博物館、公共団体から注文がくるようになった。トーテムポールの制作は、経費をまかなうスポンサーがいなくては始まらない。かつては、各家のチーフら、村の有力者がスポンサーだった。トーテムポールがよみがえった現代社会では、会社や大きな団体が、スポンサーの役割を果たすようになったのだ。

スタンレーパークに展示されているエレン・ニ―ルのポールも、ウッドワーズ百貨店が彼女に発注した5柱のポールの一本である。

文:横須賀孝弘

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