STORY

超お手軽!! トーテムポール大紀行

11. ビル・リードの歩んだ道

ブリティッシュコロンビア州

カナダの国営放送、CBC(カナダ放送協会)のアーカイブス・サイトに掲載された「翡翠のカヌー(”The Jade Canoe ”)」と題する動画では、彫刻自体をドラマチックな映像で紹介するとともに、作者のリード自身が見どころを解説している。リードの語りは、深みのある低い声で、歯切れもよく、素人離れしている。それもそのはず、彼は長年CBCにアナウンサーとして勤めていたのだ。

ビクトリア

ビクトリア

ビル・リードの生涯には、トーテムポールの衰退と復興、発展の歩みが、さらに言えば、先住民を取り巻く社会の変化が、刻まれている。

ビル・リードは、1920年に、BC州の州都ビクトリアで生まれた。少年時代の彼には、いわゆる「先住民らしさ」は乏しかった。まず、見た目が白人だった。彼の母親はハイダ人だったが、父親はスコットランド人とドイツ人との間に生まれたヨーロッパ系の人だった。CBCアーカイブス・サイトの写真を見ると、ビル・リードの顔立ちには父親の特徴の方が色濃く出ていたことがわかる。

容貌だけでなく、リードの育ち方にも、先住民らしいところはなかった。彼は、先住民の社会や文化に触れることなく少年時代を過ごしたのである。

母親のソフィー・グラッドストーン・リードは、ハイダグワイで生まれたが、10歳の時に本土の寄宿舎学校に送り込まれた。当時は、先住民をむりやり白人に同化させようとした時代で、学校では母語のハイダ語を禁じられ、英語を強制された。ソフィーはハイダ語を忘れ、流暢な英語と、西欧的な価値観、そして、裁縫の技術を身につけた。容貌は先住民だが、中身はイギリス人女性と変わらない人間となったのだ。彼女は寄宿学校に洗脳された先住民の見本だったと、ビル・リードは語っている。ソフィーは、結婚前には英語の教師を務め、結婚した後、夫が家にお金を入れなくなってからは、習い覚えた裁縫術を活かし、高級婦人服の仕立てで生計を立てた。

そんな母親だったから、息子のビルも、白人社会の中で、白人の少年として育てられた。高校を卒業したリードは、地元のラジオ局にアナウンサーとして就職した。

白人と同じように暮らしていても、自分のルーツについて知りたくなるのが人情というもの。1943年、23歳になったリードは、母親ソフィーの故郷、ハイダグワイのスキディゲートを初めて訪ねる。そこは、住民のほとんどを先住民が占める村で、ハイダの伝統的な暮らしの面影が残っていた。

ビル・リード作「ハイダのクマ」(UBC人類学博物館蔵)

ビル・リード作「ハイダのクマ」(UBC人類学博物館蔵)

当時、ハイダグワイでは、新たなトーテムポールは立てられなくなって久しかった。しかし、ハイダの伝統美術は、観光みやげのアージライト(粘土岩)彫刻や、銀ジュエリーのデザインとして、命脈を保っていた。実は、ソフィーの父(リードの祖父)は、そうした工芸品を制作する工芸家だったのだ。自分のルーツであるハイダの社会に触れたことは、若いリードに強烈な印象を与えた。また、祖父に影響されて、彫金師になりたいと考えるようになった。

1948年、リードは、CBCに転職し、東部オンタリオ州の大都会トロントに住むようになる。彼は、その機会を利用して、市内にある王立オンタリオ博物館に通い、収蔵されているトーテムポールなどのカナダ西海岸の美術、特に、ハイダのアートを熱心に見学した。さらに、当時開校したばかりのライアソン工科専門学校で、ジュエリー製作コースを受講。コースを修了すると、プラチナ工芸会社で彫金の修業を積んだ。アナウンサー業の方は専ら夜勤のシフトにし、彫金師との二足のわらじを履いたのだった。

1951年、バンクーバーに転勤になると、工房を設けて、ジュエリーの制作・販売を行った。バンクーバーでは、トロントで身につけたヨーロッパ流の彫金テクを駆使して、ハイダのデザインをジュエリーで表現する試みを始めた。

当時リードが参考にしたのは、チャールズ・イーデンショーの作品だった。イーデンショーは、19世紀中ごろから20世紀初めにかけて活躍したハイダの工芸家で、リードの祖父の伯父にあたる。おそらく、祖父に技術を手ほどきしたのも、イーデンショーだろうと考えられている。イーデンショーの作品は並はずれて優れていたからこそ、博物館の収集対象となり、後世に残されたのである。

リードは、BC州の博物館が収集した数百点に及ぶイーデンショー作のジュエリーを詳しく見て、時にはその模倣作品を作った。

こうして、リードは、当時消えようとしていたハイダ美術の灯を、辛うじて継いだのだった。

アナウンサー兼ジュエリー工芸家だったリードに、トーテムポールを制作する機会が訪れる。1956年、36歳の時に、「エレン・ニ―ルのポール」で述べた通り、マンゴー・マーティンのトーテムポール復刻プロジェクトに参加。わずか10日ほど、ほんの一部を手伝っただけだったが、トーテムポールの制作に携わったことは、リードにとって貴重な体験となった。

UBC人類学博物館

UBC人類学博物館

その3年後、1959年には、より大きなチャンスがめぐってきた。「総ヒノキ作り 冬の家」で述べた、UBC人類学博物館の「ハイダ村再現プロジェクト」だ。自分自身がアナウンサーとして読んだニュースで、この事業が正式に決まったことを知ったリードは、早速事業の担当者に電話して、自分を雇って欲しいと申し出た。申し出が受け入れられると、CBCを退職。こうしてリードは、二足のわらじの一足を脱ぎ、ハイダ工芸だけに専念することとなったのだ。

ハイダ村再現プロジェクトは、2棟の家を建て、屋内の柱に彫刻し、さらに、屋外の5本のトーテムポールを制作する、3年がかりの大事業だった。リードは、マンゴー・マーティンやダグ・クランマーとも力を合わせながら、取り組んだ。

ビル・リードの作品「ワタリガラス」

ビル・リードの作品「ワタリガラス」

1962年にハイダ村再現プロジェクトが完了すると、間もなく、スタンレーパークの「チーフ・スケダンズのポール」復刻の仕事がつづいた。
これらの事業を通して、リードはトーテムポール制作のノウハウを身につけた。そして、後にその技術を後進の工芸家たちに伝え、トーテムポール文化の復興に貢献したのである。

リードは、従来のトーテムポールの枠を超えた創作にも意欲を燃やした。ハイダの伝統的な意匠をアレンジし、神話世界のモチーフを、絵画や版画(シルクスクリーン)、ブロンズ像など、現代的なアート作品として制作しつづけたのである。
「ハイダグワイの精霊」は、こうして生まれ、1994年にバンクーバー国際空港に設置された。リードは、その4年後、1998年に、78歳で亡くなった。

文:横須賀孝弘

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