07. ビーバー戦争

ビーバー カナダを創ったスーパー・アニマル07. ビーバー戦争

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先住民とヨーロッパ人の毛皮交易。1777年にイギリスで発行されたカナダの地図の挿絵

17世紀つまり1600年代の半ば、カナダ東部から五大湖にかけての先住民の間に全面戦争が勃発。戦争の原因はビーバーだったので「ビーバー戦争」と呼ばれる。背景には、ビーバーの繁殖力を無視した毛皮交易の実態があった。

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鉄砲、なべ、毛布、ビーズ・・・交易品は先住民の暮らしを変えた

カナダで毛皮獣を実際に捕らえていたのは、主に先住民だった。白人の交易商は、専ら先住民から、工業製品などと引き換えに毛皮を入手したのである。先住民が、交易によって得る金属製の鍋や針、ナイフや斧、鉄砲、毛布やビーズ、酒などは、彼らの暮らしを大きく変えてしまった。最初は「あると便利なモノ」、「ちょっとした贅沢品」だった交易商品は、慣れ親しむにつれ、生活になくてはならない必需品になっていったのだ。その必需品を得るには、言うまでもなく、ビーバーなどの毛皮が必要だ。

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再現されたロングハウス(オンタリオ州セント・マリー アマング ザ ヒューロンズ)

巣の周りに池を巡らし、巧みな水遁の術で天敵から逃れてきたビーバーだったが、先住民狩人のチエとワザは想定外だった。鉄壁の守りを頼りに、少ない子孫を大切に育てる繁殖戦略のビーバー。守りが崩れると、滅亡は早かった。先住民はビーバーの家族を次々に攻略。その結果、部族の領内のビーバー資源は次第に枯渇していく。
ビーバーがいなくなっても、やはりヨーロッパ製品は欲しい。その解決策が、「中継交易」だった。ビーバーがまだ豊富な地方へ行って、土地の先住民から毛皮を買い付け、ヨーロッパ人に転売するのだ。この中継交易で栄えたのがヒューロン族だ。ヒューロン族は、4つの部族の連合体。樹皮で覆ったカマボコ型の家、「ロングハウス」に定住し、トウモロコシや豆を栽培する農耕民族である。農耕のほか、狩りや、魚採りも行い、また、他部族との交易もさかんだった。

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樺皮カヌーは毛皮交易でも大活躍した(セント・マリー アマング ザ ヒューロンズ)

北アメリカには先住民の交易網が発達していた。特に、現在のカナダにあたる地域では、無数の湖や川がつながり、先住民は、カバの樹皮で作ったカヌー(現在のカナディアン・カヌーはこれをまねたもの)を使って水路を縦横無尽に行き来できた。後の、ヨーロッパ人による毛皮交易も、先住民が開発した水路の知識と樺皮カヌーに頼って行われた。

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ヒューロン族は、ヒューロン湖におぶさったような形のジョージア湾の南岸周辺に住んでいた。その地域一帯を「ヒューロニア」と呼ぶ。トロントの北約150キロにあるミッドランドに、かつてのヒューロニアの暮らしを再現した歴史村、「サント マリー アマング ザ ヒューロンズ(Sainte-Marie among the Hurons)」がある。そこは、もともと、イエズス会が1639年に開設した伝道所で、現在のオンタリオ州にあたる地域では、最初のヨーロッパ人定住地だった。宣教師は、ここを拠点に、周囲の先住民の村々を訪ねて布教したのだ。歴史村では、当時を模した建物が並び、コスプレの職員が暮らしぶりを実演する。ミッドランドには、「ヒューロニア博物館 ヒューロン ウェンダット村(Huronia Museum and Huron Ouendat Village)」もある。ヒューロン族の遺物が多数展示され、また防御柵に囲まれた彼らの村も再現されていて、ここも中々楽しめた。

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ミッドランド市内の壁画。宣教師と先住民の出会いを描いている

伝道所が開設された1639頃には、ヒューロニアのビーバーは採りつくされていた。ヒューロン族は、村で採れるトウモロコシやタバコ、特産品の漁網などを元手に、北や西の部族を訪ねては、ビーバーなどの毛皮を買い付け、東方のフランス人交易商っていたのだ。当時のヒューロン族の人口は1万2千人ほどと推定されている(因みに、その頃のカナダ、つまり「ヌーベル・フランス」の白人の数は、全部あわせても360人ほどだった)。

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サント マリー アマング ザ ヒューロンズではコスプレの職員が当時の暮らしや歴史を教えてくれる

そんなヒューロン族に、手ごわい敵がいた。オンタリオ湖の南岸、現在のニューヨーク州に住むイロコイ族だ。イロコイ族は、モホーク族、オノンダガ族、セネカ族など5部族の連盟体で、ヒューロン族と同じように、ロングハウスに定住する農耕民族である。ヒューロン族とイロコイ族は、言語も暮らしぶりも近く、恐らくはともに南方からトウモロコシなどの栽培技術を携えて北に移住してきたと考えられている。そのように近縁の関係にありながら、両部族はとても仲が悪かった。カナダを探検したフランス人、サミュエル・ド・シャンプランが、1609年、ヒューロン族らに加担してイロコイ族を攻撃したこともあって、イロコイ族はフランス人とも仲が悪かった。イロコイ族は、フランス人とではなく、東隣に植民地を築いたオランダ人と交易した。

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1609年、シャンプランは、ヒューロン族らのイロコイ族攻撃に、鉄砲をひっさげて加担した

1640年頃、イロコイ族の領土でもビーバー資源が枯渇。イロコイ族は新たな毛皮の入手先を求めて、中継交易に乗り出そうとした。その行く手を阻んだのがヒューロン族だ。イロコイ族は、ヒューロン族と手を組もうと、交渉もしたが、うまくいかない。両部族の小競り合いがつづいたが、ついに、1649年3月、イロコイ族1千の軍団がヒューロン族の村々を襲い、数百人のヒューロン人を惨殺した。サント・マリーの伝道所も襲撃され、伝道所は放棄されて火を放たれた。ヒューロン族は、ヒューロニアから追い出され、逃げ惑うこととなった。ヒューロン族を駆逐した後も、イロコイ族の行く手には、彼らの中継交易を阻む部族が次々と現われ、イロコイ族によるビーバー戦争は1690年代までつづいた。
増え方の遅いビーバーは、一度姿を消した地域には中々帰ってこない。そこで、毛皮交易は、新たなビーバー資源を求めて、東部から内陸へと舞台を広げ、ついに太平洋岸に達する。こうして、大西洋から太平洋まで広がる現在のカナダの基礎が築かれたのである。

【その後のヒューロン族】
ヒューロン湖にその名を残すヒューロン族。「ヒューロン」とはフランス人の呼び名で、彼らの自称は「ウェンダット」。「島人(しまびと)」「半島人」の意味らしい。ワイアンドット族とも呼ばれている。
イロコイ族に故郷を追われた後、ウェンダットの一部は、ケベックに逃れ、そこに新たな集落、ウェンデークを築いた。ケベック市の北西にあるウェンデークには、いまもその子孫が住み、文化を伝えている。

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