探訪!西部カナダの戦国時代

03. ハドソン湾会社VS北西会社

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「レッド川の合戦」のような紛争の火種は、17世紀後半、それまでフランスが独占していたカナダの毛皮交易に、イギリスが、割り込んできたときに生まれた。

フランス人のように毛皮を求めて先住民の間に入っていくのではなく、先住民が毛皮を運んでくるのをハドソン湾に注ぐ川の河口で待つのが、イギリスの流儀だった。「待ちの商法」といったところだ。
これは、なかなか賢いやり方だった。

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ハドソン湾の周りには森が果てしなく広がる

ハドソン湾の周りを広大な森林地帯が取り巻いている。

そこには、ヤマネコやテン、キツネやビーバー、クマなど、動物が沢山住んでいる。

彼らは、北国の冬の厳しい寒さから身を守るため、ふかふかとした、質のよい毛皮をまとっている。

つまり、ハドソン湾周辺は上等の毛皮の大産地と言える。先住民が捕え、カヌーに載せて運んでくる毛皮を、河口に拠点を設けて集めれば、そこから直接、イギリスに向けて発送することができるのだ。

実は、イギリスは、この賢いやり方を、とあるフランス人から教わった。それまで彼らは、ハドソン湾を取り巻く地域が毛皮の大産地であることに気づかなかった。

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先住民のカヌーで旅をするラディソンとグロセリエ。 フレデリック・レミントン画

ハドソン湾を囲む毛皮産地について、詳しい情報をイギリスの王様に売り込み、案内を申し出たのは、二人組みのクルール・ドゥ・ボワ、ラディソンとグロセリエだった。

二人は、先住民からの情報をもとにその地域を探検し、毛皮獣が沢山いることを確かめていた。

彼らは最初、その情報を母国フランスの当局に知らせた。ところが、褒められるどころか、「密猟者」として咎められ、酷い扱いを受けた。頭にきた二人は、フランスとはライバルのイギリスに売り込んだ、という次第。

話を聞いたイギリスの王族の中でも、ルパート王子は特に強い関心を持った。二人の話が本当なら、フランスを出し抜く絶好のチャンスだ。

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ハドソン湾会社設立400年を記念して作られたノンサッチ号の実物大の複製。マニトバ博物館(ウィニペグ)

王子は、早速出資者を募り、船を二隻調達して、二人に試験航海をさせた。

そのうちの一隻、ノンサッチ号は無事にハドソン湾に到着。インディアンと交易した。

ノンサッチ号は毛皮を満載して戻り、航海は大成功。

1670年、イギリスの王侯貴族は、ルパート王子を中心に、ハドソン湾で毛皮交易を行う会社を興した。それが、ハドソン湾会社だ。

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ハドソン湾会社は、国王から、ハドソン湾に注ぎこむ川の流域を領土として与えられた。領土はルパート王子にちなんで、ルパーツランドと名付けられた。

ルパーツランドは、現在のカナダ領の40%にあたる、広大な土地だった。

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交易所での取り引き C.W.ジェフェリーズ画

さあ、そうなると、フランスもうかうかしていられない。セントローレンス川流域から、五大湖へ、さらにその奥へと、毛皮を求めて新たな交易拠点を設けていった。

前の章で述べた、ラベランドリが1738年に現在のウィニペグに拠点を設けたのも、そうした動きの一つだった。

さて、英仏は、毛皮交易を巡る商売敵だっただけでなく、17世紀末から50年以上も戦争をつづけた。結局、イギリスが勝ち、1763年のパリ条約で、カナダはイギリス領に。

カナダはイギリス領になったのだから、毛皮交易もイギリスの国策会社、ハドソン湾会社が独占したのかというと、そうではない。フランスの交易会社を受け継いだ人たちが、モントリオールに次々と会社を興し、交易をつづけたからだ。

1770年代には、ハドソン湾会社も、湾岸だけでなく内陸にも拠点を設けるようになった。

plus

カポート Capote
フェスティバル・ドゥ・ボヤジャーでは、カポートを着た人をちらほら見かけた。カポートは、毛布で作った外套。ボヤジャーや、後に述べるメティの人たちが愛用した。

03 カポート
原色のカポートは、白い雪に鮮やかに映える

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ポイント・ブランケット

ハドソン湾会社の毛布は、カポートの生地としても使われた。
端に付いている黒い線は、一本につきビーバー皮一枚の値打ちがあることを示している。そのため、ポイント・ブランケットと呼ばれる。

文・写真:横須賀孝弘

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