探訪!西部カナダの戦国時代

07. セルカーク伯・レッド川植民地・ペミカン戦争

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「スコットランドの羊」がどうやって「レッド川のペミカン戦争」をひき起こしたのだろうか?その答えの手がかりが、フォークスの近くにある。

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セルカーク入植者像

フォークスから、河畔の遊歩道を川上(北)に向かってぶらぶら。10分ほど歩くと、3体の人物を象(かたど)ったブロンズ像が見えてきた。

台座には「セルカーク入植者1813年」という文字が刻まれている。

スコットランドからウィニペグにやってきた開拓者を記念する彫刻作品だ。

そして、この像には、「羊」と「戦争」を結ぶ物語が秘められている。

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セルカーク伯トマス・ダグラス

18世紀から19世紀にかけて、スコットランドでは、地主が農地をどんどん羊の放牧地に変えてしまった。その結果、大勢の小作農が土地を追われ、困り果てていた。

コットランドの貴族、セルカーク伯トマス・ダグラスは、農民の窮状を見かね、レッド川流域に彼らを移住させる事業を立ち上げた。

ハドソン湾会社の株を買い集めて大株主となり、レッド川流域の広大な土地をただ同然で譲り受けて、植民地にしたのだ。
その面積は29万k㎡というから、本州・四国・九州を合わせたほどの広さだ。

北西会社のボヤジャーはペミカンを食糧にしたが、ハドソン湾会社は、従業員の食糧を、本国イギリスからの輸入に頼っていた。レッド川の植民地がうまくいけば、毛皮交易に必要な食糧を現地で賄うことができる。

しかし、北西会社にとって、レッド川一帯は交易ルートのかなめだ。そこに、ライバル会社を後ろ盾とする植民地ができたのだから、面白いはずがない。

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ウィニペグを流れるレッド川

ところで、レッド川植民地では、当初、農作物がうまく作れなかった。入植者は地元の先住民、オジブワ族の人たちに助けられ、辛うじて飢え死にを免れていた。

一方、メティたちは、レッド川植民地の領土内で獲った野牛の肉をペミカンに加工し、北西会社に売りさばいていた。

ペミカンが大量に作られる一方で、正式の住人であるはずの入植者が飢えるのは、おかしいんじゃないか。植民地の総督はそう考え、1814年1月に
「今後、一切の食糧を、許可なく植民地の外に出すことはまかりならん」
というお触れを出した。後の世に言う、「ペミカン宣言」だ。

さあ、怒ったのはメティたちだ。ペミカンを出荷できないとなると、暮らしに必要な交易品を購うことができない。北西会社の扇動もあって、メティは植民地を襲撃し、放火したり、脅したりして、入植者に出ていくよう迫った。

こうして、「スコットランドの羊」が回りまわって、ハドソン湾会社と北西会社の間での「ペミカン戦争」が勃発。両社が覇権を賭けて争う、いわば「カナダ西部の戦国時代」が始まった。

北西会社の交易拠点、ジブラルタル砦は、ペミカン戦争の中で、1816年3月、植民地側に乗っ取られ、バラバラに解体されてしまった。

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セブン・オークスの戦い。C.W.ジェフェリーズ画

1816年6月19日。レッド川河畔の「セブン・オークス」と呼ばれる場所で、ペミカン戦争中最大の事件が起こった。

北西会社側のメティを中心とする約60人と、レッド川植民地の総督を含む24人が出会い、口論から銃撃戦に発展。植民地側は、総督はじめ21人が殺されてしまった。北西会社側は1人が死亡しただけだった。

このセブン・オークスの戦いから、ハドソン湾会社と北西会社の「ペミカン戦争」はいよいよ激しくなる。戦争は、カナダ西部全体に広がり、多数の死傷者が出た。

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レッド川植民地を立ち上げたスコットランドのセルカーク卿も、自ら兵を率いて参戦した。

彼の軍隊は、レッド川植民地を護るため、100人ほどの退役軍人をポケットマネーで雇った傭兵部隊で、北西会社の拠点を攻撃して占拠するなどの活動を行った。

「レッド川の合戦」に登場する「セルカークの軍隊」は、この傭兵部隊がモデルだ。

さて、これまで、フェスティバル・ドゥ・ボヤジャーのアトラクション、「レッド川の合戦」に散りばめられた<キーワード>をたどってきた。ボヤジャー、レッド川、ジブラルタル砦、ラベランドリ、セルカーク伯…

そして、ようやく、「レッド川の合戦」が、ウィニペグを舞台に、本当にあった出来事の断片をつなぎ合わせたものだということがわかった。

また、フェスティバル・ドゥ・ボヤジャーが、他ならぬウィニペグのフレンチ・クオーターで催される理由も、はっきりと見えてきた。

ところで、毛皮交易の覇権を巡って争っていたハドソン湾会社と北西会社は、「ペミカン戦争」が長引くにつれ、すっかり疲れ果ててしまった。
本国イギリス政府としても、カナダで無法状態がつづくのは望ましくない。
政府の強い勧めもあって、1821年、両社は話し合い、合併。
新会社は、「ハドソン湾会社」の社名と独占権を引き継いだ。

こうしてカナダの毛皮交易は新ハドソン湾会社に統一され、「西部カナダの戦国時代」は幕を閉じる。

毛皮交易の時代をめぐるマニトバの旅。まだまだつづく。

文・写真:横須賀孝弘

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