バンクーバー 海と風と森と

20. 缶詰工場での涙と幸せ

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バンクーバーの南、リッチモンドから海に流れ込むフレーザー川の河口に、「スティーブストン」という漁師町がある。

漁港であると同時に、ちょっとおしゃれなベイエリアみたいな感じもあって、店のメニューには中国語が溢れている。きっとリッチな中国人をはじめ、シーフード目当ての観光客がたくさん訪れるのだろう。

しかしここはかつて、数え切れないほどのサーモンが遡上してくる場所として知られ、最盛期には地図にあるように15ものサーモンの缶詰工場が林立し、そこで多くの日本人が働いていたのだ。

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日本人がスティーブストンにやってくるきっかけをつくったのが、和歌山県三尾(みお)村=現・美浜町=の宮大工の棟梁、工野儀兵衛(くの・ぎへい)という人物だ。

儀兵衛氏が横浜を経由してバンクーバーにやってきたのは1888年、明治21年のこと。この河口に遡上するサーモンのあまりの多さに驚いた儀兵衛氏は、故郷に向けて「フレーザー河にサケが湧く」と連絡したのだ。これを知った村民が続々と太平洋を渡り、スティーブストンには多くの三尾村出身者が住み着くことになる。

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海を渡った、と言えば聞こえはいいけれど、要は「出稼ぎ」だ。出稼ぎとか移民の背景に、故郷で生きることの難しさがあるのは当然だ。満ち足りた生活を送っている人はわざわざ新天地を求めたりはしない。

さて、かつては地域最大の缶詰工場で、今は国定史跡の博物館となっている「ジョージア湾キャナリー」で、当時の日本人たちの様子を知ることができる。

これはフレーザー・リバー・ボートといって、当時、三尾村出身者ら日本人漁師たちがサーモン漁に使っていた実物だ。木製で、底が平らな小舟といった感じだ。

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河口に壁のように網をはり、1人が船を操り、1人が網を引き上げる。シーズンともなれば、1回の漁でこんな小舟の上、大の男2人が6泊ぐらいしたんだそうだ。

「サケが湧く」、というのは文字通り、本当だったのだろう。数え切れないほどのサーモンが網にかかり、それを人の力だけで水揚げしていく。

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そしてこの重労働には、主に中国人が携わっていたという。なんと言っても和歌山の出身だ、三尾村の男たちは漁師経験がある。

しかし缶詰工場で働く中国人たちはそもそも、大陸横断鉄道の建設作業に従事していた人たちだ。鉄道が完成し、新しい仕事を求めてここにやって来たものの、単純労働しか任せてもらえなかったのだろう。

工場内では日本人や中国人だけでなく、欧米人、そして先住民の人たちも働いていた。だから言葉の問題があるし、工場内もうるさかったため、サーモンの種類を知らせるために「ハンドシグナル」が使われたそうだ。

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この模型、ちょっとオカルトみたいだけれど、「C」、つまりコーホーサーモン(Coho salmon)=ギンザケのシグナルだ。サーモンの種類によって価値というか値段が全然、違ったんだそうだ。

水揚げされたサーモンは頭と尻尾を切り落とし、内臓が外される。当初、手作業だったこの工程を担ったのも、やはり中国人だった。

のちにこの工程は機械の導入で自動化されたけれど、その機械の名称が、中国人に対する蔑称を使った「Iron Chink」だったという。何ともひどい話だ。

そして、そのあとのサーモンの身を洗う工程に、日本人漁師の奥さんたち、また先住民漁師の奥さんたちが携わっていた。

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ただし、三尾村からやってきたのは家を継ぐ長男ではなく、次男とか三男のご夫婦だ。当然、家で赤ん坊の面倒を見てくれる祖父母などいるはずもない。

だからお母さん方はこうして赤ん坊を背負ったまま、長時間の立ち仕事を強いられていた。

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この工場、フレーザー川の水面の上に建てられているので、僕が見学している時も結構、中は空気はひんやりしていた。加えて、サーモンを洗う水はフレーザー川の水をそのまま引いてきた冷たい水だ。体調を崩す人も多かったらしい。

日本人は当時、子供を学校に行かせる権利もなかったけれど、お金を出し合い、自分たちの学校や病院、それにお寺まで作ったという。子供たちも親を助けるため、この写真の天井の穴の上、つまり2階にいて缶詰の缶が途切れないよう、下へと流していくアルバイトをしていたのだそうだ。

1941年、日本がアメリカの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争で日本とカナダが戦争状態に突入すると、日本人たちは敵性外国人としてすべての財産を没収され、内陸部の強制収容所へと送られてしまう。

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しかし戦後になって、この工場に戻ってきた日本人もいたそうだ。そしてこのグラフを見てほしい。

当時はサーモンも減り、工場はニシンから肥料と油を作るようになっていたけれど、オレンジの山、日本人が工場に戻って以降、扱うニシンの数に対して売り上げが急増しているのだ。

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ニシンの卵、つまりカズノコを日本に輸出すれば高く売れることを日本人が工場のオーナーに教えてあげたんだそうだ。悲しい出来事があったけれど、なんだかホッとさせられる話だと思う。

そして、ひどく虐げられていた中国人も、あのメニューに氾濫する中国語から察するに、今や地元にとっては足を向けて寝られない「上客」なのに違いない。

たかがサーモンの缶詰にまつわる話だ。でもスティーブストンで、のほほんとサーモンに舌鼓を打てる幸せに、僕は心から感謝したい。

文・写真:平間俊行

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